うつら、うつら、うつら……。
 その時クララは、夢うつつだった。
 両手で持ったウォッカのグラスから漂う、強いアルコールの匂い。
 そして肩に掛けられた、柔らかい毛布。


 「……風邪をひかないようにな」


 その声は、アリーナの声だとわかった。あの日に聞いたのと、同じ声だった……。




 夢の中に広がる光景は、高熱の湯気で蒸しあげられた無数の樹木。その陰を、クララは必死に逃げ惑っていた。
 熱帯雨林の惑星『オージュ』。最高気温78度に達する環境のため、人間が住むには適さない星。
 しかしここに繁茂する独特の植生は、莫大かつ良質な酸素を生む。
 それは宇宙を行く人類にとって、貴重な資源であり……つまりオージュは重要拠点の一つに数えられていた。
 その惑星の上で、クララは一人、逃げている。
 全身型のパイロットスーツは防弾断熱に優れているが、長時間の運動には向かない。
 逃げ場の無い汗が体にまとわり付き、気持ち悪い感触を産む。
 閉鎖型の簡易ヘルメットは息苦しく、後ろを振り向くのにも苦労した。


 「……こ、こんな使い方は、想定していなかったからなあ……」


 朦朧としてきた頭を激しく振って、クララは何とか思考を巡らせた。
 このスーツを脱ぐわけにはいかなかった。
 これ一枚しか着ていないのだし、スーツの外は人間が三十分ともたない高温だ。


 「くっ……」


 まだ鈍く痛む胸元を抑える。先だって狙撃を受けた部分だ。
 もしあのとき、自壊型の増加装甲と、内部のクッションをつけていなかったら……。


 「……スーツは無事でも、肋骨が折れて死んでたわね」


 そう考えると、急に涼しくなった気がするクララである。
 どのみち、もう装甲は粉々だ。設計者としては悔しい限りだが、次の直撃にスーツが耐え切れるとは思わなかった。
 いや、よしんば耐えられる強度があったとしても。無駄だろう。


 「あの敵が噂どおりの腕なら、同じ失敗はしないわね……」


 オージュに入った地球軍の兵士を、たったひとりで撃退してきた紅の髪のスナイパー。
 その腕ならば、次は必ず、スーツの弱い部分を狙ってくるだろう。
 たとえば、ヘルメットの顔面部分。比較的容易に撃ち抜くことができ、しかも致命的な場所。
 自分を美人とは思っていないクララだが、それでも顔面が破壊されて死ぬのは惨めだと思った。
 だから逃げる。逃げつづける。森の中をひたすらに、彼女の銃から逃げ続けるのだ。


 「……オージュの狙撃者との戦い。これがアリーナとの出会いだった……」


 その自分の言葉を聞いて気が付くのだ。ああ、これはいつもの夢の中だ……と。
 そのとたんに響く、一つの銃声。それはあの日の記憶。
 クララの意識が真っ白に染まった。
 「……痛い……」


 アルコールが血の巡りを良くしたせいだろうか。
 脚の古傷から走る痛みで、クララは目を覚ました。
 ……時は、まだ曙光の気配もない、静かな夜。
 テーブルにもたれていたクララの背に、ほっそりとした手が添えられていた。
 顔を上げればそこにアリーナの顔。眠っている間ずっと、横にいたのだろう。
 いつもと変わらぬその表情……しかしその赤い瞳には、確かにクララを案じる色があった。


 「……あのときの傷か?」


 「……うん」


 まだ半ば夢心地で、クララは頷く。


 「……でも、気にしないで、平気だから……」


 テーブルの上にある、もう一つのグラス。アリーナの飲みかけのグラス。
 クララはそれをひょいと奪い取って、あおった。
 ……強い強い、火がつきそうなアルコールの味。一瞬でクララの脳裏に、さらなる帳が掛かる。


 「……気にしないで……いいから……」


 アリーナの頭をぽんぽんと気安く叩き。そのままクララは、再度の眠りに落ちていった。
 二度目の銃声を耳にしたとき、クララは自分が死んだと思った。
 精神が高揚しているせいか、痛みは全く感じない。
 だが体がぐらりと傾き、地面に向かって倒れこんでいくのは確かなのだ。
 地面にぶつかるまでの一瞬一瞬を、彼女の意識はスローモーションのように知覚していた。


 (映画の死亡シーンみたい……)


 そんなことを思いながら、どさり、とうつ伏せに倒れ臥す。
 意識は冷静。一部分だけが奇妙にさえ渡り、クララの世界は音だけになる。
 銃声の残滓、走り去っていく原生動物の足音、腐った枝から滴る水の音。


 (……命が終わるときは、こんなに音が良く聞こえるのね……)


 恐怖ではなく、そんな感慨を覚えながら、クララはしばしの時を過ごし……。
 そしてようやく気がついた。足首がとっても痛いことに。


 「……あぐうっ!?」


 反射的に、痛む足首を抱えようとして、かえって激痛を引き起こす。
 その痛みに耐え切れず、クララはしばしその場でのた打ち回った。自分自身があげる悲鳴が、耳にやかましいほどだ。


 「……い、痛いよぅ……」


 第二の銃弾は、クララの右のくるぶしを直撃していた。
 自慢の防護服はきっちりと仕事をし、貫通は防いでいたけれど。
 亜音速で飛来する銃弾の運動エネルギーは並大抵のものではない。
 おそらく、周辺の骨はぼろぼろに砕かれているのだろう。


 「はぐうぅ……!」


 立って逃げられるかどうか……どころの騒ぎではなかった。
 痛みで涙がこぼれ、眼鏡に写る各種情報を見ることさえ出来ない。
 他の隊員たちは、助けに来てくれない。
 というよりも、赤い狙撃者が一枚上手という事だった。
 目立たないように、狙われないように、他の隊員たちから遠くはなれて単独行動していたクララを……逆に狙ってきた。
 地球側がシミュレートしていた動きを、あっさりと超えてきたのだ。
 助けを求める通信は済ませていたけれど、とても助けが間に合う距離ではない。


 「……もうだめ……」


 割とあっさり、クララは観念した。
 激しい痛みに耐え切れず、意気が挫けたということもある。
 またなにより、逃げられないし逃げても無駄……という気持ちが強かった。
 狙撃者は手ごわすぎた。すくなくとも、クララ個人の手におえる相手ではなかった。
 故に、まな板の上の鯉。後は料理されるだけ。やるなら早くやってくれ。
 ……だから。
 澄み切った聴覚が、近づいてくる足音を……狙撃者のものに違いない足音を聞きつけたとき。
 クララはむしろ、安堵のような感覚さえ覚えたのだった。
 ……なんとなく、臆病な足音だな……そんなことを考える余裕さえ、あった。
 「……んにゃ」


 まだ明けきらぬ早朝でも、窓辺は明るい。僅かに開いたカーテンから射す光がまぶしくて、クララは目を開いた。
 脚の痛みは何処かに行っていて、かわりに頭が死ぬほどいたい。
 あらかじめアルコール分解促進剤を飲んでいたはずだが、その能力を超えて呑んでしまったようだった。
 もっとも、それを見越して今日は休暇をとってある。
 しばらくそのままテーブルにつっぷして……。肩が重いのに気がついた。
 頬に流れ落ちてくるのは、すこし癖のついた赤い髪……。


 「……あらら、ぐっすりね」
 安らいだ表情で眠る彼女を起こさないよう、クララはそのままの体勢で目だけをうごかした。
 ……アリーナの色は赤なのだ、と改めて思う。
 解いた髪も、はだけたバスローブの色も、美しい赤。
 真っ白な肌に良く映えて、まさに燃えるような色に見えた。
 ……二人が初めて出会った時と、同じ色……。
 その瞬間の光景は、クララの脳裏に写真のように焼きついていた。
 アリーナの姿は変わっていない。
 彼女の手元にしっかりと置かれている銃が、当時のものと変わっていないように。
 ただ……昔は恐ろしい敵であったけれど、今は頼もしい味方であることが、大きな違い。

 「……クララ」


 クララのうなじに頬を摺り寄せるようにして、アリーナはかすかな寝言を漏らした。


 「……痛くしてしまって、すまない……」


 その言葉さえも、クララの記憶にあるとおり。


 「もう、気にしなくていいって、言っているのに……」


 半ば呆れ、半ば懐かしさに酔いながら、クララは赤い髪の毛を指で梳いた。
 アリーナが目覚めるまでには、もう少し掛かるだろう。ならば夢の続きを見ながら、待つのもいいかもしれない、と思う。
 アリーナの肩を抱き寄せるようにして、クララは軽く目を閉じた。
 他人の体温が、心地よい。眠りはすぐに、訪れる……。
 「……痛くしてしまって、すまない」


 狙撃者の銃は、構えられていなかった。
 クララの手から10歩ほど離れた場所で、無防備に立ち尽くし、アリーナ=マルシアンはそう言ったのだ。
 すぐに殺されると思い込んでいたクララは、だからひたすらに混乱した。


 「い、いえ、お気になさらず……」


 口から出て来たのは、そんな言葉。生まれはわからなくても、育ちは良家のクララなのである。
 敵意に欠けたその挨拶が、狙撃者の耳にどのように感じられたのか……。
 化粧ッ気のない唇が、かすかに笑った。なにかを、確信したかのように。
 その唇の赤色が綺麗だと……地面に倒れたまま、クララは思うのだ。
 相手が着ているのは、泥で汚れ、所々で擦り切れた防護服でしかない。
 反地球勢力愛用の安い赤色は、女の魅力を引き立てるものではなかった。
 それどころか、頬はこけ、汗に塗れ、髪はボロボロで大雑把に縛っただけ。
 長い潜伏生活でのやつれが、はっきりと見て取れるというのに。


 (綺麗な、赤い人……)


 クララはそう思う。そう思わせるだけの、ある種機能的な美が、相手にはあったのだ。


 「……私を、殺さないんですか?」


 恐る恐る尋ねたその声に、狙撃者はただ、「殺すつもりなら、撃たなかった」と、そう答えた。
 赤い瞳が、軽く森の奥を見る。釣られてそっちを見たクララは、そこに奇妙な騙し絵を見たと思った。
 木々の長さが、合わない。高い木の向こう側に、やけに低い木が並んでいる……。
 慌てて周囲の地形を眼鏡に映し出す。そこに表示されたのは、十数メートルの断崖。
 果てしない緑に幻惑され、逃げ惑うなかで注意力も落ち……危うくそこに落ちるところだったのだ。
 落下による全身への衝撃は、防護服がもっとも苦手とするタイプのダメージだ。
 落ちていれば、死の可能性は高かっただろう。


 「あの、もしかして……落ちないように止めてくれたんですか……?」


 「……おかげで、最後の弾を、使う羽目になった」


 手にした銃が、軽く振られる。中に弾がないことを示そうとしたのだろうか。
 銃器に疎いクララには、良くわからなかったし……なんで助けてくれたのかも、当然わからないままだった。
 基地でもらった情報には、何人もの地球軍兵士を射殺した、非情の狙撃者……と記されている。
 だが、クララは不思議と、怖さを感じなかった。むしろ、安堵さえ覚えた。
 それは赤い女の体から、まったく敵意が感じられなかったがゆえだろう。


 (……あれ。もしかして、私が素人くさすぎて、敵と認識されてないのかしら……?)


 それはそれで悲しいことだが、仕方のないことでもある。
 多少の訓練をうけたとはいえ、クララは生身での交戦に関してはまだまだ未熟者だったから。
 ……これから先になっても、大して上達はしないわけだが。
 なんであれ。クララは相手の意思を測りかねていた。
 これが本当に、追っていた狙撃者なのか……。
 今更だとは思いながらも、クララは相手の名前を確かめる。
 「あなたが、火の星のアリーナなのね?」


 アリーナはかすかに頷き、問いを返す。


 「お前は、私を消すために送り込まれた隊の、一人だな?」


 「う、うん……」


 そう言葉にされると、萎縮する。クララの役目は機材の調整だが、結果としては同じこと。
 このときのクララはまだ、任務を任務と割り切れるほどではないし……。
 いくら同胞とはいえ、顔も知らない味方をやられたからといって、義憤に燃えられるほど熱い性格でもない。
 ……これもまた、現在になっても変わらないことではあるが。


 「……ふむ。素人を送ってくるとは、地球軍はまだまだ本気ではない……ということか」


 「は、はぁ。それに関しては、なんとも」


 「……粘って戦ってはみたが、口惜しいな。一人で与えられる影響など、ここまでか」


 彼女はゆっくりと、クララのそばまで歩み寄った。
 痛みをこらえ、転がったままなりに身構えようとするクララ。それを手で制する。


 「……言っただろう。もう弾がない。あと一発、弾が残っていたのなら、兵としての役目を果たすため、
  撃たなければならなかったが……」



 ……もう弾はないんだ。幸運なことに。
 このときアリーナは、確かにそう呟いた。そして言葉を続ける。


 「もう私は、兵士としては死んだも同然。お前の好きにしてくれ。
   殺すなり捕らえるなりすれば、お前の手柄になるだろう」



 「そ、それは、投降、ということですか?」


 「……投降扱いにしてくれるなら、それでかまわない。嫌われ者の狙撃者に、それが許されるなら幸運なことだ」


 カラになった銃が、クララの胸元に置かれる。赤い狙撃者に、他に武器はなかった。
 永い孤独な戦いの果て、それが最後の武器だったのだ。
 もっとも、戦えないわけではない……それをクララはわかっていた。
 崖から放り投げるだけで、クララを殺すことはできるのだ。
 投降をしても、下手をすれば闇に葬られ処刑されるだけ。それよりは、クララを殺して逃げたほうがいいはず。


 ……なぜ?


 その時、クララの目には、確かにその疑問がありありと浮かんでいて……。
 アリーナはその目を、じっと覗き込んでいたのだ。
 赤い唇が、静かに開いた。


 「……いいんだ。たとえ処刑されたとしても、私は満足さ。いいかげん、一人で戦うのも飽きたところだし……」


 すらりとした長身が、ひょいとしゃがみ込む。
 クララの視界が、赤い髪の毛でいっぱいになった。


 「……敵でなければ良かったのだがな……」


 そう囁いて。アリーナはそのまま目を閉じた。
 クララには、彼女の意図はわからなかったけれど……その祈るような声色の前では、なにも返事は出来なかった。
 クララの仲間が駆けつけてくるまで、二人はずっと、寄り添いつづけていた。
 目を覚ませば既に昼。触れ合う肌の暑苦しさで、クララは目を覚ます。
 まだ頭の芯に残る軽い酔いは、昨夜の酒と、今朝の夢がさせたもの。
 肩がもぞもぞしたと思ったら、もたれていたアリーナの頭が起き上がる。
 狙撃者の目覚めは、明晰だけど。この起きぬけの一瞬だけ、その静かな顔に、表情があらわになる。
 幸せそうな、そしてほんのちょっと泣きそうな、綺麗な顔。


 「……おはよう。よかった、今日も会えた」


 「うん、これは夢じゃないよ」


 白い頬に、クララの唇が、軽く触れる。クララの顔にも、もろもろの思い出が、複雑な感情となって浮かんでいた。
 ……あの星で、アリーナを現地基地に引き渡したときに、もう二度と会えないだろうと思ったこと。
 アリーナの最後の言葉がずっと耳に残って……もう一度彼女に会いたいと思ったこと。会えないのが、寂しいと感じたこと。  新しい隊長と差し向かいになったときに、吐露したその心情。  ……やがて、再会。味方としての再会。


 「クロウディアさんのおかげ、なのかな。こうして一緒の隊にいられるようになったのは」


 解かれた金髪を、アリーナの手が梳くに任せながら、クララはそう呟いた。
 即座にアリーナが否定する。小さい声で、しかし、確信を持って。


 「……愛の力だ。私を一目ぼれさせた、クララの可愛さのおかげだ」


 「やぁん、もう! 変な冗談!」


 クララはたちまち真っ赤になって……唇を求めてくるアリーナの顔を、一生懸命突き放そうとする。
 もっとも、その手の動きに、決定的な拒絶はないけれど。





 そして、二人の休日が始まる。


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