「カナ、そんな食べかたしちゃ、だめだよー!」


 ユアンの声は、ほとんど悲鳴だった。
 彼の横に座ったカナは、不思議そうに小首を掲げている。
 なにを非難されているのか、理解できないのだろう。
 ……だから彼女の小さな両手は、ハンバーグをぐしゃぐしゃと、遠慮なく潰し続けていた。
 仕方がないこととはいえ、とにかくカナには常識がなかった。
 隊員達の側に置いておけば、やんちゃをして仕事の邪魔をする。
 だからユアンが、基地の裏手まで連れ出すことにもなったのである。
 ……楽しいピクニックになる、予定ではあったのだが……。


  「お弁当に素手で突撃するのは、カルチャーショックだなあ」



 カナはきょとんとしたままだ。
 ユアンはため息をつきながら、その頭を優しく撫でてあげた。
 ……知らないものは、仕方がないのである。
 いろいろ教えていけばよいことだが、はてさてどうやって教えたものか……。
 そんなユアンの心を知るはずもなく。カナは手中に目を移した。
 ちいさなおなかが、くぅ、と鳴る。ゆえに。
 誰もが備え、知っている食欲に従って、カナは行動した。


 「ん〜♪」


 手にこびりついたハンバーグの残骸を、ぺろぺろ舐めとりはじめたのだ。


 「うわあっ! そうくるかこの子は!」


 「〜〜♪」


 ユアンとは対照的に、小さなお姫様はごきげんだった。
 ハンバーグ(の残骸)はとても美味しいらしい。握りつぶされたかけらを引っつかんでは、口もとにもっていく。
 たちまち、髪までハンバーグのソース塗れになってしまった。


 「い、犬や猫じゃないんだからー! って言っても、わからないんだよね。はぁ……」


 ユアン自身、決して常識があるほうとは、思っていない。
 (そもそも常識があったら、14歳の少年がローダーに乗ったりしないだろう)
 が、目の前にもっと常識はずれの存在が居るとなれば……
  なにかがふつふつと沸きあがってくるのが、人情というものだろう。


 「ハシやフォークを使えとは言わないけど、せめてスプーンくらいは使ってよ」
 「?」



 ユアンが差し出したスプーンを、小さな口がひょいと咥える。
 反射的なものか、それとも、なにか食べ物をもらったと思ったか。


 「……けほっ!」


 スプーンはすぐに吐き出され、地面に転がった。


 「おいしくない? うん、それはそうだろうね……。はぁぁ……どうしよう」


 がっくりと肩を落したユアンの横で、カナは幸せそうに、手を舐めつづけていた。
 迷えるユアンの元へ、思わぬところから救いの手が差し伸べられた。
 ちりんちりん……というベルの音に顔を上げれば、そこにはジャージ姿の女性隊員。
 サイクリング中のミリエッタが、運良く通りかかったのだ。


 「あっ、ミリエッタさん、助けてください!」
 「……いったい何事ですの?」



 タオルで汗を拭き拭き、彼女は自転車をこぎ寄せる。
 スポーツサイクルなら、それなりに絵になるものだっただろう。
 しかしジャージに加え、前カゴのついた自転車では……
 到底『颯爽』の形容詞は使えない。
 買い物帰りの主婦……そんな言葉が、ユアンの脳裏を掠める。


 「……うん、ある意味、その方が頼れるかも」
 「……どういう意味です……?」



 すこし膨れたミリエッタのことを、ユアンは可愛らしいと感じる。
 さすがに広報隊員の一員である。顔も体も、十分に女優をやれるレベルだった。
 ……もうすこし、趣味が若ければ……
 ジョーカーや副隊長がよく言っていた言葉を、ユアンもまたもごもごと呟く。


 「あらカナとお食事中? なにかよくないことでもあったの?」


 本人にその自覚はあるのかどうか。
 自転車からのんびり降りたミリエッタは、
 まったく色気の感じられない話題を振ってくる。

 とはいえ、ミリエッタの美点は、ちゃんと状況に応じて普通に話ができるところだった。
 (マキやリンリン相手では、こうは行かなかっただろう)
 普通である、というそれだけのことが、今のユアンにはありがたかった。
 そして。


 「ええ、それが……」


 彼が事情を話そうとした瞬間。


 「カナ! メッ!」


 裂帛の怒号と共に、口元にあったカナの手が、音を立てて弾かれた。


 「……はぅ!?」


 ばんざいのポーズになったまま、カナの目が丸くなる。
 ユアンの動きも、ぴたりと止まっていた。
 二人とも、何が起きたか、わからなかったのだ。
 ……何の事はない。ミリエッタの平手が、カナの両手を弾いただけである。
 ただ、それが文字通り、目にも止まらぬ速度だっただけで。


 「お行儀が悪い! 手で食べちゃいけません!」


 ぴしゃりと言うミリエッタの横で、ユアンの髪が数本、はらはらと舞い落ちる。
 どうやら指先が掠めたらしい……と理解したユアンは、僅かに身を逸らした。
 危険だ、という天の声が、彼の頭の中を支配していた。


 「ミ、ミリエッタさん。手が早いですね」
 「小さな子供がおいたをしたときには、すぐに戒めてあげないといけませんから。
   間があくと、なんで怒られたかわかんなくなってしまいますし」



 それを聞いて、ユアンの体が更に後ろに逸れた。
 露骨に弓なりになったところで、ミリエッタの顔が赤くなる。


 「……いえ、ユアンさんをぶったりしませんわよ。話してわかる相手は、言葉で怒りますから」
 「ほ、ほんとですかぁ?」


 ユアンはついつい、上目遣いになっていた。
 やはり、副隊長の友人なのだと、心に刻み込む。類に呼ばれるものなのだと。
 だが同時に、やはり頼れる人だ……との安心感もあった。
 見ればカナは、手を舐めることを躊躇している。
 舐めようとしたことと、打たれた痛みがあまりに直結していたためだろう。効果はてきめんだった。


 「うん、カナはおりこうさんね」
 「……? えへへ……」



 ミリエッタが、カナの汚れた頬を、綺麗に拭う。疑問符だらけだったカナの顔に、笑みが浮かぶ。
 あまりに自然に行なわれる一連の動作は、ユアンの眼にはとても美しいものに映った。


 「ミリエッタさん。すごいですね、僕じゃこんなに上手く、躾られない」
 「まあ、子供のあつかいには、慣れておりますから」



 おっとりとした笑みが、その場の空気を柔らかくしていた。
 ユアンの胸が、僅かに高鳴る。
 恋の鼓動ではない。記憶にない母のぬくもりを、肌が思い出したがゆえの鼓動だった
 「……いいなあ、カナは」


 一瞬、子供に帰って甘えてみたいとも想う。
 だが、ユアンはもう14歳だった。
 未完成なカナの前では、大人として振舞わなければいけなかった。

 だから彼は、先の呟きだけを残して、その葛藤を乗り越えた。
 そんな彼をも、ミリエッタは優しく見守っていた。
 若きものを守り導く。それが年長者の役目であったから。
 ……そんな柔らかい空気の中。ふと、ユアンの頭を、疑問が掠める。


 「……あれ? ミリエッタさん、子供に慣れてるっていうことは……」


 もしかして、子供いらっしゃるんですか? 慣れるほど大勢?
 そう続けようとしたユアンの口を、ミリエッタの指先が柔らかく塞ぐ。


 「ユアン君、なにを言おうとしたかは、わかりますよ」


 彼女の微笑みは変わらなかったけれど、
 ほんの少しだけ恥じらいの色で染まって見えた。


 「は、はい……」

 こちらも僅かに照れて、ユアンは頷く。
 そして……次の瞬間。死を覚悟した。


 「……それ、口に出さないほうが良いですわ」


 ざわッと、風もないのにミリエッタの髪がなびいたのだ。
 影になった顔の真中で、三角に尖った眼が一瞬、確かに赤く光った。

 「言いませんっ! 絶対口にしません!」


 今度こそ……ユアンの体が、真後ろに倒れこむ。
 後頭部を地面に強打しそうになる寸前。柔らかな腕が、彼を抱きとめた。


 「そう、それならよろしいですわ」


 ミリエッタの微笑みは、いつもと同じ柔らかいものだった。
 ……逆にユアンの顔は、思い切り引きつっていたけれど。


 「……うー……」


 カナに至っては、つっぷして頭を抱えていた。
 彼女の本能が『勝てない相手』と認識したのであろう。


 「カナ、なにを脅えていますの? さあ、ちゃんと道具を使って食べる練習をいたしましょう」
 「んー!?」


 細い首が、ミリエッタの指二本で抑えられ、軽々と引き起こされる。
 カナはしばらくいやいやと首を振ろうとしていたが、やがて一言「ぐえ」とうめいて、静かになった。


 「子供って、ここを抑えられると、動けなくなるんですよ。ユアン君も覚えておくといいですわ」
 「……子供って言うか、人間全般、そうだと思いますよ」
 「あら、そうですか?」



 カナはすっかりおとなしくなり、されるがままにスプーンやフォークを握っていた。
 ユアンもおとなしく、ミリエッタのする事を見ているだけの存在になった。

 僅か一時間で、カナはすっかり食器を扱えるようになった。
 ハシまで教え込まれていたのは、ミリエッタの趣味である。


 「ありがとうございます。おかげでちゃんとお弁当を食べられます……。多分」


 疲れきって眠りこけるカナを抱きかかえ、ユアンはぺこりと頭を下げる。
 足元にぐったりと横たわる、ミリエッタに向かって。


 「……わ、私も一眠りさせていただきますわ……。子供の相手は、疲れます……」


 目元にげっそりとクマが浮いている。肌もいきなり荒れたようだった。
 美人の女性が、だらしなく寝そべっているというのに、色気は微塵も感じられない……。
 それはある種、奇跡のような光景と言えた。
 ユアンはふと、有名な格言を思い出す。
 そう。……年寄りの冷や水……と。


 「わ、若い頃なら、なんてことはありませんでしたのに……」


 そのまま昏倒した彼女の側で、ユアンはポツリと呟いた。


 「……若い頃って、何十年前ですか?」

 幸い、ミリエッタは良く眠っていて、聞いていないようだった。




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