心地よい疲労感に包まれながら、僕はトルティニタと一緒に天井を眺めていた。
安物のパイプ椅子がぎしぎしいうくらいに身体を預け、二人して大きくため息をつく。

「疲れたね……クリス」
「うん、疲れた」

窓から差し込む光が、赤く染まっている。
お昼頃に先生が用事があると言って出かけてから、もうそんなに時間が経ったらしい。
音楽室の、この独特の匂いの中で、今度は大きく息を吸う。
子供の頃から通い続けているこの音楽教室と、
あと数ヶ月もしたらお別れになるのかと思うと、途端に寂しさがこみ上げてきた。


僕とトルタは、この街を離れてピオーヴァ音楽学院に通うために。
アルは、この街の名物にもなっているパン屋さんに勤めるために。
中等学校を卒業して、その先に進むことのできる生徒は、この街では珍しい。
その中でも、僕とトルタはさらに特別だった。
国内でも有数の設備を誇り、著名な音楽家を多く輩出している、ピオーヴァ音楽学院。
その門は狭く、受験する生徒の数に比べ、入れる人数はほんの一握りといっても良かった。
トルタはそれをちゃんと実力で勝ち取ったんだけど、残念ながら僕は、ほとんど運だけで通過してしまったようなものだ。
魔導奏器フォルテール。名前だけ聞くとなんだか偉そうなこの楽器を演奏できる才能を、僕がたまたまもっていただけのことだった。


上を向いたまま、すぐ側に置いてあるフォルテールの鍵盤に指をかけると、
『ぽへー』というなんとも気の抜けるような音がした。

「……なにそれ」

トルタが、あきれたような声で言う。

「ちょっと触ってみただけ。弾くつもりはなかったんだけどね」

フォルテールは、弾く人を選ぶという。
魔力のない人間には、音すら出すこともできないそうだ。
周りはそれを才能だと言うんだけど、はっきりいってその自覚はなかった。
今よりもずっと昔、世界に魔法が満ちあふれていた頃。
今では歴史の教科書や小説にしか載っていないような、遠い世界のような話。


人々は皆魔力をもっていて、魔法を自由に使いこなし、豊かな暮らしを営んでいたらしい。
ある時、教科書には様々な説が載っているけど、本当のところはよくわかっていないなんらかの理由で、人々は魔力を失なった。
そして長い長い年月をかけ、代わりに科学がその穴を埋めていった。
今では、蒸気の力で列車が走り、ガソリンで車が走っている。
その当時に比べて、今が暮らしにくくなったとは、僕には到底思えない。
そんな昔から残っている楽器がフォルテールであり、時折生まれる魔力をもった人間のみが、この楽器を弾くことができた。
そんな中の一人が僕で、それは生まれつきというか、本当に確率の問題でしかない。
もっとも、それも数万人に一人と言われていて、実際にこの国には、数百人以上ものフォルテールを弾ける人間がいる。
結構高い確率と言えるだろう。ただそのフォルテールの音色は、自分で言うのもなんだけど、ちょっとしたものだと思う。
音楽に携わる者の多くが憧れ、魔力をもった人間のほとんどがフォルテール奏者の道を選ぶほどだ。

そして僕も、その中の一人だった。


そしてこの国では、フォルテールを中心とする音楽という文化自体を、誇るところとしている。
だから魔法の才をもつ者は優遇され、そのための受け皿も充実していた。
その中でも特に有名なのが、これから僕とトルタが通うピオーヴァ音楽学院だ。
数多くの有名なフォルテール奏者や、音楽に関する多くの分野の人材を生み出す、これもまた国の誇りとも言える学院だ。
その一員になれたと知ったのが、今日のお昼前。厚い封筒に入った二人分の合格の通知を、アリエッタがここまで運んでくれた。
子供の頃からずっとお世話になっているこの音楽教室の先生も、一緒になって喜んでくれた。
ここから学院の生徒を出せたことを、誇りに思うって言ってたっけ。
先生に続き、アルもなにか用事があるって言って帰ったけど、僕とトルタは、ここに残って好き放題に歌ったり楽器を弾いたりして騒いでいた。
僕達の他は生徒がいないような小さな教室だったから、合い鍵も持っていたし、残って遊んだりするのもいつものことだ。

「なに考えてるの? さっきから黙っちゃって」

突然、トルタが話しかけてきた。二人とも、まだ上を向いたまま、話を続ける。

「ん? 昔のこととか」
「小さいときのこと?」
「それよりずっと昔。歴史の話なんかだよ」
「なにそれ、似合わないの」

トルタも相当機嫌が良いのか、ほとんど笑いながら軽口を叩いた。

「もう一曲、なにか弾こうか」
「う〜ん、喉痛いけど……一曲くらいならいいか」

僕は僕でかなり疲れていたけど、興奮が未だ冷めていなかった。
このまま寝転がりたい衝動を抑え、勢いをつけて椅子に座り直そうと頭で考えていると、
入り口の方でドアの開く音がした。首だけ向けて様子を窺う。

「やっぱりまだ残ってたんだね。良かった」

アリエッタが、バスケットに山盛りの何かを乗せ、おぼつかない足取りで教室に入ってきた。
先生が自分の家の一部屋を改装して作ったこの教室は、楽譜や譜面立てを保管する楽器庫やホワイトボード、
十人ほどが一度にレッスンを受けられるスペースで成り立っている。
普通の家にしてはかなり広い方の部屋だったけど、二台のグランドピアノ、十個のパイプ椅子が並び、結構手狭な感じだ。
緩やかな弧を描くように並べられた椅子の合間を縫うように歩き、アルが僕の前に立って顔を覗き込んだ。

「なに見てるの?」
「ただの天井。疲れて見上げてただけだよ」

それを機にきちんと座り直し、アルと向かい合うように椅子の位置をずらした。

「ああ、アル。どうかしたの?」

まだ天井を見上げているトルタが、少し不機嫌そうに言った。
なにか弾こうとしているのを中断されたからだろう。
なんだかんだ言っても、トルタは歌うのが好きだったから。

「どうかって……二人を迎えに来たの。そろそろ晩ご飯だよ。
クリスも来るでしょ? 今日は特別な日なんだから」

「僕の家には寄った?」
「寄ったよ。二人とも来るって」

僕と、アルとトルタの双子の姉妹は、家が隣り合わせで、いわゆる幼なじみの関係だった。
同じ年頃の子供がいたおかげで、お互いの両親も仲が良い。
日曜日には、それぞれの家に料理を持ち寄って、一緒に食べる習慣まであるほどだ。
先週は僕の家で食べたから、今回はアルの所といった具合だ。

「でも、晩ご飯って言ってるわりに、それは? 良い匂いがしてるんだけど」

アルの持っているバスケットからは、香ばしい匂いが漂ってきていた。
アリエッタは料理を作るのが趣味で、春からは街のパン屋さんに勤めることにもなっている。
最近は家でもよく作っているようで、香りが僕の家まで届くくらいだ。

「お祝いにって作ったの。本当は三時頃に食べられるようにって思ってたんだけど……
材料がなくってお買い物とかに行ってたら、遅くなっちゃって」

その材料も、多分買い過ぎたんじゃないだろうか。
両手で抱えるほど大きなバスケットには、こぼれそうになるほどのパンが詰め込まれていた。


「まあいいや、とにかく一個もらうよ。晩は晩で、食べるから」
「あ……でも、ご飯はどうしよう?」
「あのねえ、わざわざ持ってきてるってことは、私達に食べて欲しいってことでしょ?」


文句を言いながら、トルタがパンを一つ取った。僕は二つ取って、そのうちの一つをアルに差し出す。
アルはバスケットを脇の椅子に置いて、仕方なさそうに笑って受け取った。
そして、三人で向かい合うように椅子を並べ、わいわい言いながらパンを食べる。
できたてのそのパンは、なにもつけなくても甘く、いくらでも食べられそうだった。
四個目に手を伸ばした時に、ようやくアルが僕の手を止めた。

「クリス、そこまでにしないと」
「……でも、晩ご飯までは、あと一時間くらいはあるよね?」
「うん。七時頃にできるってうちのお母さんが言ってたから」
「それまでには、お腹も減るよ」

そう言い訳をしてみても、アルは毅然とした態度でバスケットを僕から遠ざけた。
アルは普段は気の弱い、大人しい感じの女の子だけど、
駄目だと思うことや自分の信じていることなんかには、驚くほど強い意志をみせることがある。
こうなったらもう、いうことを聞くしかなかった。
気が強い妹のトルタでさえ、こんな時には逆らえない。

「しょうがない。なら、そろそろ出ようか? 歩いてればお腹も空くだろうし」

そう言って僕が椅子から立ち上がると、二人とも同じようにその後に続いた。
椅子をもとあったように並べ直し、空調と電気を消す。窓から射し込む光は、もうすでに弱くなっていた。
冬に入ってからは、驚くほど日が落ちるのが早い。もう十分もしないうちに、辺りは真っ暗になるだろう。
預かっている鍵をポストに入れ、三人で外に出る。生徒数三人の音楽教室は、こんな風にして終わることがよくあった。
全面的に僕達を信頼してくれているから、先生が出かけているときでも自由に使うことができた。
僕達がいなくなったらどうするんだろうかと最近になって考えたことがあったけど、そんなに心配することもないのかもしれない。
月謝と言ってもほんとにわずかで、そのほとんどが、僕達に時々出してくれるお菓子や紅茶なんかに消えている気がする。
先生は他にちゃんと仕事をもっていて、この教室はほとんど道楽のようなものだって自分でも言っていたっけ。
一人でも生徒が新しく入ってくれば、先生はその子供に音楽の楽しさを教え、この教室を続けていくんだろう。
いや、もし入ってこなくても、生徒を待ちながらひっそりと宣伝していくんじゃないだろうか。
それに、今でも生徒は二人だけみたいなものだった。


アルは歌があまり……というより、かなり上手ではなかったので、今ではほとんど練習もしていない。
今日みたいに、時々僕達の様子を覗いては、差し入れを持ってきてくれたりするだけだ。
その音楽教室を出て、三人で暗くなり始めた道を歩く。
この辺りは民家もまばらで、暗くなり始めると人通りも極端に少なくなり、少し寂しい。
遠い間隔で立てられた街灯が、ぽつりぽつりと点き始める。
僕達の家は、先生の家から歩いて五分くらいの距離にある。
三人でおしゃべりをしていると、最後の曲がり角でトルタが急に立ち止まった。

「私はそのまま家に帰るけど、二人はどうする? 少し歩いてから帰る?」

突然トルタがそんなことを言うのには、理由があった。
彼女がわざわざ気を遣ってくれているのに、それを無にしてしまうのは、どちらにとってもあまり良いことではない。

「え? ……ああ、そうだね。じゃあぶらっと歩いてから帰ろうか、アル。
七時までに戻ればいいんだよね?」
「あ、うん。そうなんだけど……トルタは?」
「邪魔するのは嫌だから。二人で行ってきなさいよ」

僕達の返事を待たずに、トルタは角を曲がってさっさと家に帰っていった。
その後ろ姿をアルと二人で見送る。

「行っちゃった。なんだかトルタに、気を遣わせたちゃったみたいだね」

アルが、少し悲しそうにそう言った。
トルタのそうした行動に、一番戸惑っているのはアリエッタだった。
僕はそうでもなかったし、当のトルタこそが、なにより進んでそうしてくれているのに。
トルタの好意を受け入れ、僕達はまっすぐに道を進む。
次の角を曲がって、少し遠回りをして家に帰れば、着く頃にはちょうど七時になっているだろう。
デート、とまではいかなくても、こうして二人きりで歩くのは、それだけで心が踊るような時間だった。

 

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