ぎりぎりのところで会場の外に出ると、ドアのすぐ横に立っていた係員がドアを閉めた。


「それで、聞きたいこととは?」
「あの、今ちょうど先生に聞いたんですけど、コーデル先生は、今演奏してたクリス・ヴェルティンさんの担当をなさっているそうで」
「ああ、確かに彼は私の教え子だ。不肖の、ではあるがな」
「良かった。彼について、少しお聞きしたいんです」



 クリスのフォルテールが気に入ったんだろうか?
その気持はわからなくもないが、同時に、少し不釣り合いな気もした。



「答えられる範囲なら、どうぞ。
長くなるようだったら、場所を変えても構わないが。ちょうどこれから彼に会うところだ」
「いえ、そんなに大したことじゃないんです。
ただ、卒業演奏のお相手とか、もう決まってたりするのか、それだけ確認したかったんです」
「……気に入ったのか?」
「ええ」
「決して良い出来ではなかったと思うが」
「はい。そう思います」
「結構はっきり言うんだな。まあ、反論する気はないが」
「あ……ごめんなさい」
「いや、気にしなくて良い。でも、それならなぜ?」



 もっともな疑問を投げかけてみると、彼女は少し目を逸らし、物思いに耽るように少しの間、口を閉ざした。


「気になったんです」


 というのが、しばらくして出した彼女の答えだった。


「とはいっても、一昨日からずっとフォルテール科の演奏を聴いてみて、今日までにいろんな人にも声をかけてるんです。
パートナーがまだ決まっていない良い人がいないかと思いまして」
「まあ、その質問に対する答えなら、すぐにでも答えられる。クリスのパートナーは、まだ決まっていない」
「そうでしたか。ありがとうございます」



 ずいぶんと積極的なことだが、その姿勢には好感がもてた。
そういえば、講師の間でも受けがよく、将来はプロになるのが確定しているという噂もあった気がする。
 こうして何人に声をかけているかは知らないが、他のフォルテール科の講師なら、喜んで自分の生徒を紹介したくなるだろうな。
ただし私の場合は、紹介する生徒に癖がありすぎる。
両方の生徒のことも考えて、少し慎重に考えざるを得なかった。



「何が気になったのかはわからないが、彼は喜んで勧められる生徒でないことだけは、最初に言っておこうか」
「ええ、それでもいいんです。今日はちょっと、その確認だけしておきたかっただけですので」
「そうか。一応話しておこうか?」
「いえ。その時になったら自分で話してみます。他の方とも色々お話ししないといけないので」
「わかった、一応君のことは覚えておこう。なにかあったら、私のレッスン室に来なさい。
平日はだいたいそこにいる。レッスンの時間帯でなければいつでも構わない」



 レッスンの時間帯は、三年になるとほとんど変わることはない。
一、二年の頃は他の科の基礎を習ったり、様々な講義を受けなくてはならないが、三年になるとほぼ個人レッスンが中心となる。
特別講義などがたまにあるが、直接単位に影響することはなく、生徒の自主的な判断に全てが委ねらていた。
 だからこそ、生徒数も限られ、講師の数も普通の学校に比べ、格段に多くなっている。
今の私の仕事は、受け持ちの生徒のレッスンだけだ。毎日決められた時間に生徒がレッスン室に来て、個人授業を繰り返す。
そしてそれは、声楽科も同じだった。



「ありがとうございます。機会がありましたら、お世話になることもあるかと思います」
「ああ、是非来なさい」



 彼女はまた、丁寧すぎるお辞儀をして、その場を去っていった。
根が生真面目なのか、その仕草も堂に入ったものだ。
これなら、ピオーヴァ音楽学院の名だたる講師達も気に入るわけだ。
 学院の特色でもあるが、ここの講師には、世界で活躍している現役の音楽家も数多くいた。
だいたいは、現役を退いた元音楽家であったが、中には一線で活躍している者も、非常勤講師として在籍していたりする。
 そして、基本的に音楽家は自尊心が強く、おだてに弱い。
彼女は知って知らずか、気に入られる術を身につけているようだった。
 私のように、学院を卒業してそのまま講師になるケースは、本当に稀だった。
教えるほうが性にあっていると学生の頃に気づき、その判断は間違っていなかったようだ。
講師としての実力は学院内でもそれなりに認められ、現状に満足もしている。
だからかもしれないが、こうした卒のない生徒よりも、基本的になにかが欠落した、いわゆる手の掛かる生徒の方が好きだった。
 とはいえ、彼女の音楽に対する姿勢や、はっきりとした物言いには好印象を抱いていた。
あのクリスも、彼女のような生徒と組めば、少しは変わるだろうか。



「……さて」


レッスン室に待たせている当の本人が、そろそろしびれを切らしている頃か。
時計を確認して、歩き出す。
機会があったら、彼女の方からまた会いに来るだろう。その時には、一度その歌声も聴いてみたいものだ。
不肖の弟子のため、彼女の名前を一応記憶に留めておいた。
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