それから、三十分くらいは校内を歩いただろうか。その頃には、だいぶリセちゃんの態度も柔らかくなっていた。


「これで、一応最後かな」
「はあ……結構広いんですね。それに、設備もしっかりしてます」



 感心するように彼女はそう言い、最後に寄った練習室を眺めていた。狭い練習室ながらも、アップライトではなくグランドピアノを置いてあるあたりが、この学院の凄いところだろう。数えたこともないが、廊下に立ち並ぶ練習室全てがそうなのだから、校内にあるピアノの数は相当なものだった。


「まだ、時間はあるよね?」
「はい。あと三十分くらいは」
「ならさ、ちょっと寄りたいところがあるんだ」
「寄りたいところ?」
「まあね」



 内容を話したら断られそうな気がして、言葉を濁す。今日は学院自体が休みだったけど、練習室を使っている生徒はそれなりの数がいた。私もその中の一人だったはずだが、今日はもうそんな気分でもない。
 とにかく、練習室に学生でない人間をいれるのは気が引けた。これから通うことになる生徒だから、見回りに来た講師に見つかったとしても、それほど怒られることはないかもしれない。でも、念のために別の場所まで彼女を連れて行くことにする。
 そこは、私のお気に入りの場所でもあった。


 何も言わずに、リセちゃんを旧校舎まで連れてくる。
 たくさんの貴族の寄付で今の新校舎が建てられてからは、ここが使われることはなくなった。とはいえ、敷地内の土地が余っているせいで壊されることもなく、今でも普通に使うことができる。時代のある建物なのだが、古き良き時代の建物はそれでも頑丈で、一向に心配する必要もない。
 きちんと電気も通っているし、置いてあるピアノが調律科の生徒の実習に使われたりするおかげで、練習するのにも全く差し支えがない。ただ、新校舎には膨大な数の練習室があったから、そんな目的で利用する人はほとんどいなかった。
 でも、時々静かな場所を好む生徒なんかが利用することもある。私もその中の一人だった。



「あの、ここは?」
「旧校舎だよ。さっきまでいたのが新校舎で、あそこだと普通の学生もいるから、ちょっとね」
「普通の学生がいると、なにかまずいんですか?」
「んー、ちょっとね」



 ここまで来たら、さすがに帰るとも言わないだろう。種明かしをしながら、時々使っている音楽室に向かった。


「あ……あの、ここでなにを?」
「ちょっと、フォルテールが弾きたくなっちゃって。卒業演奏のことは知ってる?」
「い、一応は」
「私、実はパートナーもまだ決まってなくて、練習相手を捜してたの。良かったら一曲だけでもどう?」
「えっと……」
「ここには他の生徒も来ないから、大丈夫だよ」



 なにを心配しているかは知らないけど、ここなら他の人に聴かれることもない。内気そうなリセちゃんも、それなら大丈夫だろうと思ってそう言ってみたんだけど……。


「あの……本当に歌ってもいいんですか?」
「もちろん」



 おずおずと訊ねる彼女に、力強く答える。すると、さっきまでの態度が嘘のように、明るい顔をして彼女は頷いた。
 本当に歌が好きなんだろう。こんな純粋な気持ちをもっていたのなら、私ももう少し、ここでうまくやれていたかもしれない。まあ、今更言っても仕方がないことではあったけど。



「曲は何にする? これでも三年間ここで練習したからね。有名な曲ならだいたい弾けるよ」
「えっと……それなら」



 彼女が挙げたのは有名な曲で、ここにいる生徒なら誰でも知っている類のものだった。


「うん、それでいいよ。その曲好きなの?」
「はい」



 嬉しそうに彼女は答え、ピアノの前に立って発声練習を始めた。なんだか本格的になってしまった感もあるけど、純粋にそれが嬉しくもある。ここの学生にもなっていない彼女がどんな歌を歌ってくれるのかも気になったけど、恥ずかしいところを見せられないという自尊心も働いた。急いでフォルテールを用意して、何度か試し弾きをする。


 ――次の瞬間、彼女の澄んだ声が音楽室中に響いた。


 小柄な身体なのに声量もあり、良い声だった。天性とでも言えばいいんだろうか。明らかに私が今まで聞いてきた、学生達のどの声とも違った。そしてそれは、プロの演奏会で聞くような声、とも言えた。驚きを隠せずに彼女の顔を見つめていると、それに気づいたリセちゃんが突然謝り始めた。


「あ……ごめんなさい。いきなり大きな声を出してしまって」
「いや、ぜんぜん構わないよ。どうせ外には聞こえないし。ちょっとびっくりしちゃっただけ……それも、良い意味でね」
「……良い意味、ですか?」
「うん、良い声してるなって。ひょっとして、歌は長いの?」
「……ええ、まあ。小さいときからでしたから」
「……へえ。私なんか真面目に練習をし始めたのはここに来てからだから、まだそんなに上手くないんだ」



 まるでその声に気圧されるように、気づけば言い訳をしていた。まだ、軽く声を聴いただけに過ぎない。でも、これだけははっきりとしていた。私よりもこの子の方が上手いんだということだけは。


「……そ、そろそろ始めようか」
「あ、はい」



 これ以上黙っていたら、自分でも何をしゃべってしまうかわからない。それが怖くて、早く終わらせてしまいたい気分になる。


「じゃ、行くよ」
「はい」



 不安ながらも、フォルテールの鍵盤に指をかける。誘ったことを軽く後悔しながら、指定された曲の初めの音を弾き始めた。

 

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