『Tortinita』


 目を閉じたまま、私は辺りの気配を感じ取ろうとした。
チーズの焦げる音。
立ちこめるトマトソースの香り。
この部屋を覆う暖かさは、夏の陽気のせいだけではなかった。


「あ、良い匂いがしてきたね。もうできあがり?」


 トルタはすぐにやってきてそう言った。
私は長年の経験と勘で、もう少し時間が必要だとわかっていた。
でも、あえて質問をする。


「もう大丈夫だと思うかい?」
「え? それは、わかんないけど。おばあちゃんがわかってるんじゃないの?」
「トルタに聞いてるんだよ。どう思う?」
「え? ……ええ? うんと……もうちょっと……かな?」



 自信のなさそうな声で、トルタはオーブンに顔を近づけたようだった。
それからしばらくは何も言わずに、ただ黙って中の様子を窺っている。そして、今度ははっきりと言った。


「うん、まだ少し焼かないと駄目だね」


 トルタもだいぶ、料理のことがわかってきたようだ。
それに安心して微笑むと、トルタは小さく嬉しそうな声をあげた。


「今度は自分で作ってみるかい?」
「う〜ん……今日みたいな日は止めとく。
おばあちゃんが出かけてる日にでも一人で作るよ。
それなら失敗しても誰にも迷惑かからないし」



 今日は、クリスが家に来る日だった。
年に四、五回程度だろうか、わざわざ私のために顔を見せに来てくれる。
 彼がまだ幼い頃、私もトルタ達と一緒にクリスの隣の家に住んでいたことがあった。
クリスは祖父母と一緒に暮らしてはいなかったので、時折遊びに来ては、私のことをお婆ちゃんと呼んでいた。
私も孫がもう一人増えたように思え、可愛がったものだった。


 私が一人でピオーヴァの街に越してきたのが、今から約七年前。
小さい頃から音楽が好きで、この街には憧れを抱いていた。
とはいえ演奏する才能はとんとなかったから、本当に憧れに過ぎなかった。
しかし年を取り、それなりに余裕が出てくると、欲もまた出てくる。
毎週毎月街のコンサートホールで行われる演奏は、ものにもよるが、大半が手頃な値段で入ることができた。
私がこの地に住もうと考えたのも、自然な流れだったのかもしれない。
それに、いつかはここで暮らしたいと言い続けていたから、息子夫婦にもさほど反対はされなかった。
半ばあきらめられていたようでもある。
 そしてなにより、だんだんと視力を失いつつある自分の眼が、最後のチャンスだと教えてくれたからでもあった。
老人性の白内障だと早い段階で気づけたおかげで、今はこうして料理も不自由なく作ることができる。
何年もかけて物のある場所を覚え、生活のほぼ全般を自分の手で行えるように努力もした。

 自分の道楽で始めたこの生活も、トルタが家にやってきたことで、それなりの意味をもつことができた。
クリスのフォルテール科と違い、国からの援助の一切無い声楽科への進学は、一介の市民にとっては大きな負担となる。
学院の生徒は、貴族や、彼等に拾われた孤児達が大半を占めるが、
それでもトルタのように、一般的な家庭から来る生徒の数も少なくはなかった。
家賃などの息子夫婦の負担も減らすこともできたし、なによりかわいい孫においしい料理を作ってあげられるというだけでも、ここに来た価値は充分にある。
 そうして、人生の残り少ない時間ではあるが、私は幸せな時間を送っている。
 その中でも特にお気に入りの時間が、クリスが遊びに来てくれる、こんな日だった。


「それで、クリスは何時頃に?」
「午後になってからって言ってたかな。
やっぱりいつも通り、昼ご飯は自分の家で食べるんだって」
「そうかい……なら仕方ないね」



 クリスはここに来てから、少し遠慮をするようになった。
きっとここに来る前からなんだろうけど、私にとってはどちらでも意味は同じだ。
それがただの成長であるとは、思えない節がある。
子供達の抱える問題に関われないことは理解しつつも、それをただ見ているだけというのは、なんとも歯がゆい。
幼い頃の記憶でも、同じように私は迷い、そして成長してきた。助言や、ほんの少しだけなら助けることもできる。
 ただ、根幹の部分において、やはり子供達は自分の力で乗り切らなければならない。
 老人という立場は、かくも不便で、もどかしい。


「じゃあトルタ、いったんラザニアをあげて。
ここまでやっておけば、最後に暖めるだけで構わないから」
「は〜い」



 クリスが来てからは料理もままならなくなるので、早い時間から用意は怠らない。
トルタは私の言葉を待って、それから様々な用意を始めた。

 

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