挽きたてのコーヒー豆の香りが、部屋に充満する。初日に用意させたコーヒーメーカーの前に立ったまま、シャオリーはこちらを見ずに俯いていた。それが、彼女に初めて下した命令だというのも、思えば馬鹿な話だった。
シャオリーはカップに出来たばかりのコーヒーを注ぎ、それをそっと机の上に置いた。
「どうぞ」
夜も遅かったが、ブラックのまま一気に飲み干す。昨日会議室に呼ばれるまではずっと寝てばかりだったから、それほど眠りに餓えてはいない。
「お前も飲めばいい」
「いえ、私は遠慮しておきます」
「遠慮はしなくていい。どうせお前が自分で入れるだけだ」
「命令でしょうか?」
丁寧な言葉とは裏腹に、皮肉ともとれる内容だ。
「遠慮をするな、というのが命令だ。飲めとは言っていない」
「かしこまりました」
彼女がそう答えた後、不自然な沈黙が訪れる。自分の分のコーヒーを入れるわけでもなく、シャオリーは無言で俺の後ろに立っていた。
無言のまま二杯目を要求すると、慣れた手つきでシャオリーはカップにコーヒーを注いだ。どうせコーヒーなんか、誰が作っても一緒だったが、いつも通り、それを旨いと感じた。
「明日は十時より会議室へ、とジーン様から伺っておりますが」
「それがどうした?」
「いえ、コーヒーをあまりお召しになっては……」
「関係ない」
「失礼しました。出過ぎた真似を」
「……別に良い」
飲み慣れているせいか、それが睡眠の障害になることはない。シャオリーの分も含めて入れさせた、三杯分のコーヒーを飲み干すためにカップを差し出す。うやうやしくシャオリーが注ぎ、それも飲み干した。
「お前はもう寝ていいぞ。俺は好きなときに寝る」
日付が変わって、数十分が過ぎているのを時計で確認して、そう告げた。金で買われた女のことを思いやるつもりもないが、その過去には大いに興味がある。そして、それを聞き出すためには、ある程度優しくしてやる必要があるかもしれない。
「ウォルシュ様は?」
「好きなときに寝る」
「では、私はその後に」
「俺が寝ろと言ったら寝ろ。邪魔だ」
献身的な、とも思わせる態度に、苛立ちを覚える。どうせ金が目当てだろうが、と一瞬考えたが、それは自分も同様だな、と意味もない自嘲を心の中で呟いた。
「……それでは、寝る前に一つだけ、いつも欠かさない日課があるのですが、それを済ませてから休ませていただきます」
「日課?」
「……日記をつけているだけです」
どうせ隠しても無駄だと悟ったんだろう。今度は、シャオリーもおとなしくそう答えた。
「好きにしろ」
「あの……その件なんですが」
「なんだ? 勝手に見るなとでも言いたいのか? 嫌だね、俺が見たいと思えば見る」
「……さきほどの約束に関わる問題です。ここには、私のことが書いてあります。もちろん、私の借金のことも」
「だから見るなっていうのか?」
「さきほどの約束が有効なら、そういうことになります」
「で、それが守れないというなら?」
「契約を破棄しても、ここから出て行きます」
「わかった。約束しよう」
あっさりした承諾に、シャオリーは一瞬身構えるように身体を強ばらせたが、すぐに緊張を解き、もごもごと感謝の言葉を口にした。
「そんなに俺が信用できないか?」
しかし、そう簡単に安堵を与えてやるつもりはない。
「俺が勝手に日記を見ると?」
揺さぶりをかける。
「いえ、信用しております」
すかさずそう答える。それがお世辞なのは言うまでもないが、できればその口から真実を聞きたかった。
「そっちだけ条件を追加するのはフェアじゃないな。そっちの言い分を飲んでもいいが、こちらの条件も増やす」
「……どのような条件でしょうか?」
「すぐに頷かないんだな」
「条件によっては、お引き受けいたしかねます」
「過去を探らなければなんでもする、とさっき言ったはずだが?」
「なら……その件に関わらないことでしたら」
「関わらない。俺に嘘をつくな。お世辞も言うな」
「二つありますね」
「同じ事だ」
皮肉っぽいシャオリーの口調に、少し気が緩んだ。つまりはそういうことだ。
「まあいい。その調子で言葉を飾るな。本心を語れ。二つは同じ意味だ」
「……それは私の仕事ではありません」
「それは俺が判断する」
「しかし、職務の是非を判断するのはあなた様ではありません」
金を支払う人物への配慮か。意外というか、金への執着は強いらしい。その借金とやらで、遊女のまねごとをしているせいかもしれない。
「なら、他人がいる時はさっきまでの態度を崩すな。二人でいるときは、さっきの約束を守って貰う」
「……感謝いたします」
「それはお世辞か?」
「ええ。訂正します、感謝などしていません」
「それでいい。その調子で質問にも答えろ」
「はい」
険しい表情で、探るような視線をシャオリーはこちらに向ける。怒りよりも、今は当惑が勝っていた。それが変わるのも、そう時間はかからないだろう。
「さっきの、約束を承諾しなかったらこの仕事を降りるって話……あれは嘘だろ」
ゆっくりと時間をかけ、シャオリーは頷いた。
「俺が断らないと思ったか?」
「ええ」
「自分にそれだけの価値があるとでも?」
「いえ」
「それでも、確信があったのか?」
「はい」
「それは、どんな?」
「……あなたは最初から、私に興味がある素振りを見せていました。だからです」
「俺が? お前に? 興味を? なぜ?」
「主観的な意見です。根拠はありません」
「根拠は……あるはずだ。それはなんだ?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「聞きたいからだ。答えろ」
「……あなたが私を選んだからです。どう考えたって、あの中から私を選んだ理由がわかりません。でもあなたは選んだ。そこに根拠があるとしたら、私ではなく、あなたのほうのはずです」
「それだけか? 俺がお前を選んだことだけが理由か?」
シャオリーの目が細められた。どうしてそこまで詳しく聞こうとするのか、疑問に思っている目だ。
「……それだけです。それ以上のなにがあると、あなたは言うんです?」
嘘をついているようには思えない。しかし、どこか違和感が残る。年齢も、国籍も、シャオリーはある人物を強く思い出させた。それを確かめるために尋ねる。
「ジーンに俺のことを聞いたか?」
「え? ジーン様から?」
さっきまでの真剣な顔とは違う、幼さが垣間見えた。質問の意図が完全にわかっていないようだった。ということは、おそらく聞いていないのだろう。
「……なんでもない。忘れろ」
思い過ごしかもしれない。わざわざ俺の事を調べ、そしてこの少女をわざわざここに用意することなど、不可能だ。
……本当に不可能か? という内側からの声を無視する。
「それは命令ですか?」
「そうだ。お前の過去には関わらないだろ? これは命令だ」
皮肉には皮肉を。
「かしこまりました。それとは無関係な話ですが、一つだけ言っておきたいことがあります。よろしいですか?」
「ああ」
「私は娼婦ではありません。この身体を売ったことは、一度もありませんから」
「それは、良かったな。ま、似たようなもんだがな」
「似たようなものになるかどうかは、あなた次第ですね。できれば私も、そんなことはしたくありませんが」
「金のためなら何でもするんだろ?」
「……必要ならば」
「なら同じだ。まあ、そう卑下することはない。歴史上もっとも古い、由緒ある職業だ」
「大丈夫です。私が卑下するのは自分ではなく、それを買う客ですから」
「どちらも似たようなものだろう」
敵意には敵意を。
愛には愛を。
――罪には罰を。
悪意と欺瞞に溢れた応酬で、その日は終わった。
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