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   『魔杖黙示録(majou-mokusiroku)』。
 のちにそう呼ばれることになる災厄は、いまより二十年前、それ自体が意志を持つ“名もなき魔法の杖”と、杖に操られたひとりの魔法使いによって、引き起こされた。表の歴史上では、観測史上類を見ない超々々大型台風の連続発生――として記録されている、異常気象の一年。
 世界各地の台風の中では、杖により、無限と思われるほど大量召喚された悪魔の軍勢に対し、当時いくつもの結社に分かれ活動していた魔法使いたちが、それぞれの立場を越えて協力しあい、戦い続けていた。
 その結果、災厄は全世界の魔法使い半数の命を犠牲に払い、およそ一年で終息した。だが、召喚された悪魔のすべてが滅ぼされたわけではなく、討ち砕かれた“名もなき魔法の杖”も、その破片は世界各地へと飛散し、いまだに多くは行方が知れない。災厄を生き残った魔法使いたちは、混乱が続く世界の正常化を図るため、すべての魔法使いと“魔法”に関する技術・知識を統制する機関『世界魔法組合』を設立した。
 アメリカ合衆国ワシントンD.C.に本部『螺旋図書館(Spiral-library)』を置く世界魔法組合は、あらゆる魔法的災害への対処を活動指針に定めながら、その実、その存在意義は以下の一点に集約される。――意志を持つ“名もなき魔法の杖”の破片であるがため、それ自体も意志を持つに至った杖の破片、名称『破片の獣』の探索と討伐である。
 そして――
 



 ……なんていう知識は、とりあえず由菜には関係なかった。いまは、まだ。

「うーんん。すごい、けど、よくわからないなぁ」
 正直な感想をもらして、ぶ厚い『近代魔法史』の書物を閉じる。ベッドに仰向けに寝転がり、重たい書物を掲げるようにして読んでいたため、すっかり両腕が疲れていた。なにせ生まれる前の出来事だ。実感をともなえないのは仕方ないと思う。
 読むより枕にするほうが似合っていそうな書物を、力なくベッドに下ろす。
(お母さんも戦ってたのかな、このとき……)
 それこそ、由菜の想像力の限界をはるかに超えたイメージだ。“庶民的”を絵に描いたような、あの母が。ノエルに聞けば、その辺りのことも教えてもらえるのだろうか。んっ、と体に勢いをつけて身を起こす。気分転換に、というつもりで読みはじめたが、逆に疲れてしまった気がする。
 床に素足を下ろし、スリッパを履いてぺたぺたと筆記机へ歩む。
 椅子を引いて腰掛け、机の上に置いてある『秘密の箱』を手にとった。深呼吸する。
 もう何回目になるかわからない、再チャレンジ。
(見えろ、見えろ、見えろ、見えろ……)
 白い紙箱を両手で持ち、額に押し当て、目を閉じて念じる。
 そもそも、こんな超能力実験みたいなやり方でいいのかも、実はわからない。我流だ。
 机の端に置いてある目覚まし時計の秒針が、カチコチ時を刻んでいる。
 どのくらいそうしていたか、頭痛がしてくる。大して時間は経ってないはずなのに。
(ああもう、見えろ、見えろ、見えろってば! ――)
 自分の脆弱さに苛立ち、集中力を乱し、そのせいでさらに苛立つ。悪循環だ。と、コンコンと扉がノックされ、その音でわれに返った。箱を机に戻し「はぁい!」と返事をする。扉が開けられ、廊下にプルが見えた。喫茶店制服のエプロン姿。それは、さまになっていながら、どこか子供の遊戯めいた愛らしさも感じさせる。
「――お風呂が沸きました。ユナさん、入ってください」
 どれだけ働いても疲れを知らない彼女。機械(?)だからとわかっていても、羨ましい。
「あ、うんっ……」頷いて、椅子から立ち上がる。
 いつもは用件を告げるとすぐ立ち去るプルだが、由菜が廊下に出てくるのを待っていた。
「どうですか、“箱”のほうは」
「んーん、全然。ちっとも。進行状況は、ぜろぱーせんと、です」
「まだ五日目です。あきらめるには早すぎますね。『ふぁいと』」
 どこまでも淡々とした、とても励ましているようには思えない、いつもの口調。
 ――由菜が苺ノ沢家にやってきて、すでに五日が経っていた。新しい公立高校にも通いはじめているが、ひと月後に進級を控えている状況では、なかなかクラスにもとけ込めずにいた。えりすは、別の私立の女子校に通っている。
 今日は木曜日。学校から帰宅するなり、エプロンをつけてフロアに出る日々。プルの厳格かつ的確な指導のおかげで、仕事は徐々に身につきつつあったが、もうひとつの修行の成果は、まるで芳しくなかった。やっぱり、簡単にはいかない。
 プルはくるっと背を向けて、廊下を歩きだす。
「そうだ、あの、プルさん」
「なんでしょう」立ち止まり、ふり返る。冷ややかな人工の瞳が由菜を見返す。
「えりすも『秘密の箱』の修行してたのかな。前に聞いたけど、答えてもらえなくて」
「わかりません。わたしが、この家にきたのは三年前ですから」
「そっか、ありがとう」
「ただ、エリスさんは、マスターに師事してはいないようです」
 はじめて知ったが、意外には思わなかった。充分、考えられることだったから。
「わかった。ありがとう、いつもかわいいね」
 かしゃんっ、とバイザーが下りてプルの表情を隠した。
「――いえ、それほどでも」
 くるっと再度ふり返り、階段へと歩み去っていく。
 ほんのわずか、足取りが弾むようになっているのが、微笑ましいと思う。質問に答えてもらった感謝の念から、つい賞賛が口をついてしまった。『Cafe Petit‐magie』は午前十時から午後八時までがオープン、水・日が休みの週五日営業。木曜の閉店後、プルお手製の夕食から二時間が経った、現在は午後十時を少し回った時刻だ。
 とにかく湯船に体を浸して、疲れをとろうと由菜は思った。