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 ――週末を待って、それは決行された。

 少女は追われていた。夜の都会を。
 追っているのは男、数は四名。みな、いかにもガラが悪そうな身なりをしている。酒気を帯びているのか目が正気ではない。しかし、ふらついているものの足取りは力強く、懸命に逃げる少女との距離は、徐々にだが確実に狭まっていく。少女は必死だ。捕まればなにをされるか、どのような目に遭うか、想像できぬほど子供ではない。
 なのに、おかしなことに少女は、周囲へ助けを求めることをしない。それどころか判断力が落ちているのか、自ら人気のないほうへ迷いこんでいく。繁華街から裏路地へ、奥へ、奥へと。明るい場所から、暗がりへと。やがて、当然の帰結として少女は男たちに追いつめられた。……裏路地の、袋小路。
 すでに繁華街の明かりは遠い。閉店した中華料理店の裏。生ゴミが押しこめられたポリバケツ、横倒しのまま放置されているタバコの自販機。離れた場所でぽつんと点る、いまにも切れそうな街灯だけが、辺りを薄明るく照らしている。少女は中華料理店の壁を背に男たちに包囲される。足のふるえがジーンズの上から、はっきりとわかる。
「こないでっ、そ、それ以上、近づいたら……っっ」
 近づいたらどうなるんだ、というようなことを男のひとりがいった。その言葉がよくできたジョークのように、ほかの三名が笑った。少女は、救いを求めて男たちの後方へ視線を向ける。だが、不規則にまたたく街灯に照らされるそこには、誰の姿もない。え、と呟いた少女の顔が、たちまち絶望に彩られる。
「なあ、これ以上、近づいたらどうなるんだ?」「なあ」「なあ」「なあ!?」
「ひっっ」輪唱ぎみに問われ、喉が引きつった。
「どうなるかって聞いてんだよ、おい!」
「そっ、そ、それは……」
 少女は答えられない。答えられるはずがない。男たちは下品な欲望をたぎらせ、包囲を狭めていく。必死に後ずさろうとするが、壁を背にした少女は当然どこへも行けない。掌にふれる壁面が嫌な感じに湿っていて、ひどく不快だった。目尻に涙を浮かべながら、泣いたらダメ、と少女は自分を叱咤する。
 逃げなきゃ、逃げなきゃ、でもどうやって? ああもう、――は、どこいったの?
 男たちがゾンビの群れのように手をのばす。欲望を満たすには物足りない少女の体へと。
「教えてくれよ。これ以上近づいたら、どうなるんだ? なあぁぁぁッ!?」
「――フッ。あなたたち、地獄行きよ」
 悠然としながら刃のように鋭い声は、少女と男たちの頭上からふってきた。
「!! ……えりす!!」
 ぱっと表情を明るくさせて、少女は――、由菜は顔を上げた。中華料理店の屋根に立ち、片手を腰に当て、袋小路を優雅に見下ろしているのは、紛れもなく戦闘用の黒いドレスに身を包んだ、えりすだった。満月からわずかに欠けた月を背にしたその姿は、さまになりすぎているがゆえに、いっそう由菜を腹立たしくさせる。
「もうっ、なにやってたの! どこいってたの!」
 喉が渇いたから、ちょっと飲み物をね、とこともなげにいって、えりすは腰に当てているのとは反対の手を掲げてみせる。最近はやりのカフェチェーン店『巣田場コーヒー』でテイクアウトした、アイスモカのSサイズカップが握られていた。
「でも、やっぱりいまいちね。プルが入れたコーヒーのほうが、いけるわ」
 なのになぜ客が入らないのかしらウチは、とぶつぶつ呟いている。
 由菜はがっくり脱力する。怒る気力すら湧かなかった。だが男たちはそうではない。なんだてめえ邪魔すんな、と芸のないセリフを吐き捨てる。えりすは飽き飽きした顔で、それを耳にした。ただ傲然と、みごとなまでに蔑みの目で男たちを見下ろし、
「もし、その子に指一本ふれたら、その体、塵芥と化すわよ」
「へ?なにいってんだ。てめえも遊んでやる下りてこい!」「こい」「こい」「こい!」
 由菜を怯ませた輪唱にも、えりすはただ薄い嘲笑を返す。
 男たちの反応は当然だ。いかにインパクトのある登場であっても、そこにいるのは、ティーカップを傾けているのがお似合いの、令嬢然とした少女なのだから。ましてや、塵芥と化す、の真の意味など知りようもない。
 その気になれば、彼女が、いつでも拳に“爆弾”を込められることなど。
「……苺ノ沢えりす」
「あん?」×4
「今夜は月がキレイだから、特別に教えてあげるわ」
 えりすは、勢いよくカップを宙に放り投げる。
「あなたたちを――地獄の血の池へ叩き落とす者の名前よ!」
 屋根を蹴る。夜影より黒いドレスがひるがえる。
 右手の格闘用グラブの金具を月明かりに光らせ、放たれた矢のように降下してくる。
 それから起きたのは、戦いでも喧嘩でもない、一方的な鉄拳乱舞だった。

「使えないわね、由菜。外れよ、“また”」
 また、を強調して、えりすはいった。
「これで四度目よ。ぜんぶ外れ。しかも毎回ひとりずつ増えるなんて、どういうこと?」
「し、知らないってば」
「使えないったら、ホント使えない。期待はずれ、がっかり、ダメダメだわ」
「!! もう、協力してるのに、文句いわないで!」
 せっかく、『指一本ふれたら』といわれたとき、ちょっとうれしかったのに。
 協力してほしいと請われ、できる範囲でならと答え、連れてこられた、この場所。
 都心に近い繁華街の一角。
 えりすは、まず、毎夜、洋館から姿を消している用事を“悪魔狩り”と表現した。
 由菜への頼みを、彼女は「要するに釣りのようなものよ」と説明した。釣人がえりすで、魚は“悪魔”あるいは悪魔に憑かれた“人”。『近代魔法史』を読んでいなければ、とても理解不能だった。なんとか彼女がいっていることは飲みこめたが、由菜がエサ、と簡単にいわれては納得できる話ではなかった。
 ――ここ一年“やつら”を見つける機会が、かなり減っているの。
 ――それは、わかったけど。わたしがエサっていうのは……。
 ――わたしの読みだと、由菜は“霊的誘引体質”よ。霊媒体質ともいわれるわ。死者の霊や悪魔や、いわゆる“この世ならざるもの”を引き寄せやすい体。だから、あなたの母親は、それを防ごうとしてお守り“護符(アミュレット)”を渡したんだわ。しかも彫られている内容からすると、由菜の体は、相当、強い影響力を持っている。
 えりすの言葉は由菜に幼いころの記憶を思いださせた。恐ろしい、怖い、悪夢。
 ただの夢じゃなかった、あの出来事。
 ――護符をわたしに預けなさい、由菜。あなたを囮に“やつら”をおびきだすわ。
 直球だった。彼女らしかった。
 ――そして、わたしが“狩る”。←自信満々に。
 そんなこと無理だ。聞けるはずがない。“悪魔狩り”なんて物騒で、想像を超えた話に、参加する勇気なんてない。それは当たり前すぎるほど当たり前の結論。お守りを身から離してはいけない、とは、母にもいわれていることだ。…………なのに。もしかしたら。もしかしたら“よい魔女”になるヒントが見つかるかもしれない。