7

 ぬうっと顔を突きだし、頭上から見下ろしてくる。
『愚婁……』
 一瞬で凍りついた。
 幾重にも、こもっているような聞きとりにくい音、いや声――?
『愚婁婁婁婁婁婁』
 無理やり聞きとるなら、それは『ぐるるる』という獣の唸り声に似ていた。
“それ”は黒かった。全身が夜よりなお暗い漆黒だったが、肌の質感がエナメル合皮のようで、空からふる月光を弾いていて、輪郭はハッキリわかった。
 大柄な、それこそ由菜の体の、ゆうに倍以上ある人間的な体。首から上は湾曲した角が生えた山羊の頭部、背には大きな翼。すべて黒で塗りつぶされていた。まだオカルトに疎い自分でも知っている、お手本のような“悪魔”の姿。
 あの日見た大勢と同じ、“それ”は、あの“こわいモノ”だった。
 電信柱の下にいた由菜を、ここまでさらってきた相手。
『愚婁婁婁婁婁婁……?』
 なにを聞かれたのかわからない。ただ凍りついてばかりの由菜に、“悪魔”はニヤリと嫌らしい笑みを浮かべた。黒山羊の顔で、器用に、舌なめずりするように。ぼたぼたと口端からこぼれてくる唾液が、頬にかかる。……そこから、肌が溶けていくんじゃないかと思うほどの嫌悪感。
 ず、と“悪魔”が踏みだす。コンクリートに横たわる由菜の体の両脇に足を着き、またぐようにして真上から見下ろされる。――弾かれたように体が動いた理由は、自分でもわからなかった。身をねじり、地面に手を着いて立ち上がっていた。意識しての行動ではなかった、それは確かだ。
 目茶苦茶に駈けだす。どこへ? と、そんなことを考える余裕もない。ただ“悪魔”から遠くへ、少しでも遠くへ。余裕なんてないクセに、この両目は視界に映る景色から、ここがどこかの高層ビルの屋上だと、脳に教えた。……その事実は、由菜に檻にとらわれたも同然の絶望を抱かせる。
 いくらも走っていないのに、たちまち息が切れた。足がもつれ、転びそうになる。
 どっ、という地面をける音と、ばさ、という翼のはばたきが、一度ずつ。
 たったそれだけで、“悪魔”は由菜の前に飛び降りてきた。立ちふさがれた。
『愚婁婁婁婁婁婁婁婁』
 嘲笑。
 ただ恐怖に駆られ、由菜は反転して、ふたたび走りだす。心臓が悲鳴を上げる。
 つまずくものなんてなにもないのに、転んだ。
 ブオンッ、と頭上をなにか太いものが、ものすごい勢いで通過したのがわかった。
 身をひねり、背後を見る。すぐそこに“悪魔”の――あの“こわいモノ”の姿があった。
 捕まった。もう逃げられない。
 自分があの日に逆戻りして、同じ場面をやり直しているような錯覚におちいる。
 あのとき助けてくれた母は、もうどこにもいないのに。
 くわあ、と“悪魔”が大きく口を開けた。ぞろりと生えそろった太い牙、まっ赤な舌。
 ただただ、なにもかもを後悔していた。母との約束を破り、お守りを身から離したこと。えりすの頼みに頷いてしまったこと。悪魔との戦いに、少しでも前向きになってしまったこと。こんな時間まで夜更かししたこと。悪漢をなぎ倒すえりすの姿に見惚れてしまったこと。最近プルの食事をつい食べ過ぎてしまっていること。そもそも東京になんて出てきてしまったこと。
 でも、でも“魔女”になろうと思ったことは間違いなんかじゃ――
「――――――――――ッッ!!」
 どおん、と黒山羊の頭部が弾けたのは、その瞬間だった。
 ……黒い“悪魔”しか映っていなかった視界に、それと同じ、黒いなにかが割りこんできたことに、由菜は気づくのがずいぶん遅れた。ぜんぶ見えていたのに。信じられないような高い跳躍の軌跡を描いて、その黒いなにかが現れたのを、ぜんぶ。
 それは由菜と“悪魔”の間に強引に着地した。ひとの姿をしていた。長い髪をしていた。
 切るように鋭く由菜へふり返る。女神みたいにキレイな顔をしていた。
(あ、えりすだ)
「…………、……!?」
 なにかいっているが、難聴になったみたいによく聞きとれない。たぶん、ぽかんと間抜けな顔をしている自分に、なぜか怒ったような表情をして、えりすは体をひねりながら後方へ跳んだ。頭部を半分削られながら、数メートル後退しただけで平然と立つ“悪魔”に向かって。驚くほど無謀な、回避など考えていない突進だった。
 えりすが、格闘用グラブをしている拳をふるい、“悪魔”の胸に叩きつける。
 同時に、ふたたび、どおん、と空気をゆるがす爆発。
 だが“悪魔”はまだ倒れない。胸に大穴を開けながら、なお平然と右腕をふりあげる。
『愚婁婁婁婁婁ッ、愚婁婁!!』
「……“ゴートヘッド”! こんな大物が……っっ」
 不意にラジオのチューニングが合ったように、えりすの怒声が届いた。
“悪魔”が猛獣のような鈎爪をふりおろしても、彼女はその場所から動こうとしなかった。自分を狙うぶんは好きにしろとでもいうように。致命傷にならないギリギリで鈎爪をよけ、ドレスの腕を裂かれながら、左手でどこかから鉄片(プレート)をとりだし、右手の格闘用グラブの金具に差しこむ。
 その右拳を、さらに今度は、えぐるように腰に叩きこんだ。
「“爆裂(バースト)”!!」
 三度目。“悪魔”の体が大きく傾いだ。そして、そこへダメ押しの一発。
 一瞬でも早く敵を倒すことだけを考えた、防御は二の次、物資も惜しみなく投入、強引にもほどがある総力打撃だった。
「――――――“爆裂”!!」
 まるで、砲弾飛び交う戦場に投げだされたようだと、由菜は思う。