雪に抱かれて眠る。棺の中に横たえられた遺体のような静けさを湛えて。
――になりなさい、由菜――
ゆるやかな山の斜面の雪原に大の字に横たわって、ウトウトまどろんでいた彼女は、不意に耳の奥でよみがえった声に目を覚ました。驚いたように目を見開き、大きくまばたきをくり返して凍えた睫毛を上下させる。
いまは二月末。両目に映る北海道の星空は、あまりに空気が澄んでくっきり見えすぎるせいで、作りもののように現実味がなかった。
膝まで隠れる濃い茶色のダッフルコート、長年愛用している手編みの赤いマフラー。防寒着に包まれた由菜の体は、まだ眠りの淵に沈んでいるように身じろぎひとつしない。わずかに開いた口からこぼれる白い吐息が、ふわりと氷点下の夜気に広がっていく。
いつからか雪は止んでいた。
交通事故だった。泥酔中の運転手が起こした、ありふれた典型的なケースだったらしい。
青信号の横断歩道を渡っていた母の死から、今日でちょうど一ヶ月。
(こんなところ見つかったら、後追い自殺しようとしてるって思われるかな)
夢みるように考える。ほのかに口もとに笑みが浮かぶ。
仰向けのまま見上げる夜空には冷たい満月。
ぱっぱー、と遠くから車のクラクションが聞こえてきた。……里見のおばちゃんだ、と呟いて、由菜は勢いをつけ跳ねるように上半身を起こした。雪に包まれ、芯まで冷えきった体はバキバキ音が立ちそうなほど固く、動かしづらかった。
(もう時間なんだ、――行かなきゃ)
野原由菜(nohara-yuna)、十六歳、高校一年、現在・親なし子。
父の顔は知らない。シングルマザーとして育ててくれた母が、肉親のすべてだった。
クラクションが聞こえてきた斜面の下方へ視線を向ける。雪が積もりにくい三角屋根の一軒家、由菜の自宅が見えた。“里見のおばちゃん”がいつも運転している軽トラックは、ここから見えない。いつものように向こう側、家の正面に止めているのだろう。
雪原の中、立ちあがる。コートや髪についた雪を手袋をした両手で払う。
「由ー菜ー!」
家に明かりが灯っていないことに気づいて、車から降りたのだろう。この季節にあって、びっくりするほど薄着の恰幅のよい女性、母の友人・里見セツが家を回りこんできて、由菜に姿を見せた。横幅のある体がユサユサゆれている。
「おばちゃん、ここ!」
「わはは、やっぱりそこだね! もう、お別れは済んだんかい?」
「うん、ゴメン。いま行くからーっっ」
「なぁに、ゆっくりでいいべや!」
セツの声にうなずいて、由菜はマフラーを巻き直し、鼻下まで覆った。
わずかに顔をあげ、視線を遠くへ投げる。三角屋根の自宅の、そのさらに向こう、遠くへ。吸いこまれるような街明かりの遠景。北海道の中心都市・札幌市の東、E市の山の中腹に野原家は建っている。自宅の裏口から出て、斜面を二百メートルほど上った、ここから見える夜景が由菜は好きだった。
ぜんぶ覚えていよう、と思う。
小学校に進学したばかりのころ、母に連れられて、はじめてこの場所に立った。
――わああ、きれーい!
――でしょう? ママ、ここから札幌の街を眺めるのが大好きなのよ。
――ずるーい、いままでずっとひとりできてたんだ!
――ふふ、そうね。由菜が眠ったあとに、こっそり。
――ずるい、ずるい、ずるい!
――由菜はまだ小さかったから、風邪をひくといけないし……。
――ぶー。
――でもね、ママ、ここにくるとお腹が空いちゃって困るのよ。
――え? どーして?
――だってほら、齧ると、とっても美味しそうでしょう?
特に、冬。
視界一面に広がる雪景色と、その中に浮かぶ街明かりは、ぴかぴか光るアメ玉を散りばめた甘い甘い砂糖細工のようで。
――わかんない! そんなのママが食いしんぼなだけだもん!
いままで教えてくれなかった仕返しをしたくて、幼かった由菜はそう答えた。
少しだけ恥ずかしそうだった母の顔を、よく覚えている。
(本当はわたしも同じように思ってたよ、お母さん)
いま目に映ってる光景を、ぜんぶすべて残らず覚えていよう、と由菜は思う。
母の記憶とともに。
心のシャッターを切るように、由菜は一度、目をつむった。胸のうちに焼きつけるための数秒を数え、まぶたを持ちあげた。自宅のそばでセツが待っている。由菜は雪原を踏みしめて斜面を下っていく。足の運びにしたがって粉雪が舞う。――セツの軽トラックに乗りこんで、自分は、行かねばならないのだ。
寒さで赤くなった耳の奥、救急病院のベッドから母が告げた、最後の言葉が残っている。
ごく常識的な世界に生きてきた由菜の世界観をくつがえす、長い話の終わりに。
『――この世界に“魔法”は実在するわ。だから、
東京に行って“よい魔女”になりなさい、由菜』
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