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 一体目は出会いがしらの一発でしとめた。あと二体。
「…………ふッ!」
 連携をとる余裕など与えてやるわけもなく、えりすは薄汚れた雑居ビルの壁面をけって、その身を高く舞わせる。人気のない裏路地で披露するには、鮮やかすぎる後方宙返り。落下する勢いを右脚に乗せ、杭を打つようにけりを放つ。
『ウギッ! ギギィ!』
 路上には、漆黒の体毛に包まれた身長2mを超す大柄な猿が、二匹いる。
 全身で盛りあがった筋肉、路面にまで届きそうな両腕。それは猿というよりゴリラとでもいうべき姿だった。――下級悪魔“ダーク・エイプ(闇猿)”。人肉に飢えた赤い目が、えりすの姿を捉えきれず虚空をさまよっている。
 手近な一匹を次の標的に定め、脳天に踵を食らわせて汚水の水溜りに叩きつけた。
(しょせん“下の中”だけど、一度に三体とはありがたいわね……!)
 このチャンスを逃すわけがない。残らずいただきだ。
 えりすは水溜りに倒れた一匹と、健在なもう一匹の間に着地した。
 その足元に小さな黒い結晶が転がっている。先ほど完全に滅ぼした一体目の亡骸だ。悪魔は死体の代わりに“石”を残す。『ウボォォ!』と横手から低い吠え声。まだ無傷のダーク・エイプが視界の外から食らいついてきた。えりすはつま先で“石”をけり上げ、左手で掴みながら顎をかわし、懐に潜りこんで分厚い胸板に右ひじを叩きこむ。彼女の動きをなぞって、長い髪が弓なりの軌跡を描いた。
 体格差は倍もある組み合わせだが、ダーク・エイプは軽々と吹き飛ばされる。
 巨体が転がった先には、退屈そうな牙姫の姿。そばに気絶したOLが倒れている。
『気をつけよ、この娘子に当たるではないか』
「そのザコが軽すぎるのがいけないのよ。――手応えのない」
『贅沢なことをいうな』
「ポイント稼ぎになっても、腕を磨くには役立たずだわ」
 弱者無用といわんばかりの態度だ。
 左手の中の“石”をドレスの胸もとに落としこむ。やれやれ、と吐息をついて牙姫は無惨に衣服を引き千切られているOLを見やった。外傷はなかった。彼女を裏路地に連れこんだ下級悪魔どもは、怖がらせて弄び、最後に食らおうと考えたのだろう。
『わらわは眠い。早々に終わらせよ、えりす』
「ええ、そのつもり」
 えりすは迷いのない顔で応える。
 後方で水溜りに倒れているダーク・エイプは、脳震盪でも起こしているのか、まだうずくまっている。牙姫の前に転がっていた一匹は、うめき声をもらして身を起こした。巨体をふらつかせながら立ちあがる。
『ウギギィ……、ガァーッ、ハァーッ……』
 腐臭じみた息で荒々しく呼吸しながら、すぐ背後にいる牙姫とOLに気づく。
 無力そうな白犬と女性に、手ごろなエサを見つけたと野卑な笑みを浮かべる。
 乱杭歯がならぶ口を大きく開き、牙姫にのしかかろうとした。対して牙姫は、ただ面倒くさそうに眼差しを返すのみ。まるで言葉を発する手間さえ惜しむように、剣呑な眼光を差し向け、わずかに牙を覗かせる。
 ――下衆が。それ以上、わらわに生臭い息を近づけてみよ。煮るぞ。
 びくん、と背筋を痙攣させて、ダーク・エイプは硬直したように動きを止めた。
「あなたの相手は、こっちよ。――バカ猿!」
 挑発的に吐かれたえりすの言葉に、まるですがるようにダーク・エイプは巨体の向きを変えた。ドレスのスカートを夜風にそよがせ佇むえりすは、どこからとりだしたのか左手に小さな鉄片をつまんでいる。
 縦2cm、横6cmほどの薄いプレート。
 そしてそれを単発銃に新たな弾丸を装填するように――またダーク・エイプに見せつけるように――、右手のグラブをかかげスライド式の金具に差しこむ。一体目を仕留めるのに使い、すでに効力を失っていた一枚が押しだされ、キンッと路面に落ちた。
「さあ、きなさいな」
 優しい口調に反した凄みのある笑みで、えりすはダーク・エイプを招いた。

「わたしの拳が、あなたのためにレクイエムを歌ってあげるそうよ」

 お気に入りの決めゼリフだった。
 牙姫は居たたまれない様子で身をふるわせ『いわずにおれんのか、それは……』と呟いてみせる。白毛に覆われてわからないが赤面しているようだ。人語を解する知性のないダーク・エイプは、不思議そうに首をかしげるのみ。
 だが、えりすから感じる脅威が倍増したことに、闘争本能を刺激されたらしい。
『ウギッ! ウボォ、ウボォァァァ!』
 本物のゴリラなら胸を叩きそうな勢いで吠え、路面をけった。地響きのごとき疾駆音。
 えりすの腰回りと同じ太さの右腕をふりあげ、端然とした彼女の顔めがけてふりおろす。えりすは巨岩のような拳が顔面に迫っても微動だにしない。それは、さながら魔物に怯え、身動きがとれなくなった令嬢を思わせるさまだった。
 のしかかるダーク・エイプの巨体が月明かりをさえぎり、えりすの全身を影が覆う。
 風を切る轟音。一撃撲殺の拳が彼女の前髪にふれる、その刹那――。
 影の中で雷光が閃いた。
「――――――――――――“爆裂(バースト)”ッッッ!!」
 神速で放たれたえりすの右拳は、いままさに額に届こうとしたダーク・エイプの巨拳を迎撃し、拳同士の正面衝突を生んでいた。同時に発せられた声を受けて、スライド式金具に装填されたプレートが、封じられていた魔力をノータイムで開放。
 攻撃系魔法のひとつ“爆裂”が発動する。
 砲撃のごとく一方向に集束された爆撃は、下級悪魔など、ひとたまりもない威力だった。
 炸裂。破壊。
 面白いように闇色の体が四散し、宙に溶け、黒い結晶が路面に落ちてくる。
「…………、ふぅっ」
 息を吐いたえりすは、赤熱し、ぷすぷすと細い煙を上げているプレートを見た。それはキーワードを口にするだけで“魔法”を発動させることができる、“呪式プレート”という貴重な魔法道具だった。もちろん一般庶民が手に入れられる代物ではない。
(これは、便利だけど一度しか使えないのが難点ね……。高いのは、いいにしても)
 使いきりの一枚が日本円にして五十万からする。
 えりすは「これでふたつ目」と呟いて、前かがみになり路面の“石”を拾おうとした。
 その途中で、あ、と身を起こす。牙姫を見る。
「思いだしたわ、家を出るときいわれたこと」
『ほう?』
「明日、家に居候が来るっていう話よ」
 ……そのとき、えりすの後方で、ダーク・エイプ最後の一匹が、ようやく水溜りから立ち上がった。ゆるく頭をふっている。
「たしか、わたしと同じ歳の娘(こ)らしいわ」
『珍しい話じゃの』
「どんな子――かしら」
 ……状況を見れば、そのダーク・エイプは逃げるべきだった。だが、知性の低い下級悪魔は、逃走という選択肢を思いつけなかった。
『聞いておらんのか?』
「北海道の子ということだけ。だからその子、きっとイモが好きね」
 自信ありげにいった。どこかでグサッという音がしてそうだった。……じりじりと、えりすの背中にダーク・エイプがにじりよってくる。えりすに気づいた様子はない。
『ふむ、仲ようやれるのか?』
「さあ? それは相手の出方しだいよ」
 牙姫の問いに、えりすは意味深な笑みを浮かべた。
「わたしは――……」
『ウギギギギギギギギギギィィィィィィィィィィィィ――――――――ッッッ!!!!』
 背後からえりすに近づき絶対決死圏に捉えたダーク・エイプは、両手を組み合わせて巨大な拳をつくり、頭上高くからふりおろした。渾身の一撃。えりすは背中に目がついているように小さな左ステップひとつでかわす。手品のごとく、すでに三枚目の“呪式プレート”を装填していた右拳を、標的を見ることもせずふりあげる。
「――わたしの目的達成の邪魔になるものには容赦しない。それだけだわ」
 神業めいたカウンターの一撃。そして、命じる。
「“爆裂”」
 みっつ目の“石”が、路面に落ちてきた。