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 この拳をふるう意味はひとつ。すべては“螺旋”に招かれるために。

 喪に服す姫という表現が、いまの彼女の姿には似合っていた。
「……不愉快な風ね。イライラするわ」
 黒を基調としたドレスめいた衣装が、すえた匂いを孕んだ埃っぽい夜風に、大きくはためいている。スカートから覗くしなやかな両脚も黒のストッキングに包まれ、いま高層ビルの屋上を踏みしめている革靴も同色。
 明るく透ける茶色の髪が月光を弾いている。この一帯でもっとも高い屋上にたたずみ見渡す眼下では、眠ることを知らない歓楽街のネオンと、休むことを許されないオフィス街の明かりが混然となっていた。
 わずかに眉をひそめ、彼女は形のよい顎を持ちあげて、上空へ視線を向けた。
 東京の夜空は明るい。いくつもの雲が勢いよく流れていくさまが、はっきりと見える。
 真円を描く冬の月を見上げたまま、彼女はふたたび声を発した。
「――どう? 牙姫」
『ふむ、どうといわれてものう』
 返る声は、彼女の腰より低い位置から届いたものだった。
 月光に照らされ銀色にも見える毛並みの、狼と見まがう顔つきをした中型の白犬。妙に時代がかった声音は、その白犬の口からもれていた。人語ではあったが、こもったような、どこか変わった響きをしている。
『まあ、待っておれ』
「二月は、まだ一体しか“狩れて”ないのよ。こんな調子じゃ……」
『えりす。焦りは、その拳を鈍らせようぞ?』
「フッ、まさか。わたしの両手は、そんななまくら刀ではないわ」
 心外といわんばかりの声。彼女は整った面立ちに自信をあらわにして応じた。
 ドレス姿には不釣合いな、格闘用の革製グラブを嵌めた右手を満月にかざして、ギュッと握りこみ拳にする。えりすと呼ばれた彼女のグラブは、拳の打撃面に、薄い板状のものをスライド式に装填できる金具が付いていた。一見ちぐはぐな組み合わせだが、なぜか全体としては統一感を感じさせた。
 びゅう、とひときわ強い寒風がえりすに吹きつけ、長い髪を躍らせる。
 風の中、怯むことなくまばたきすらせずに、えりすは夜の都会を睨みつける。
「なにがあっても、わたしは“螺旋”に行かなくてはならないのに――」
『…………、?』
 そのとき、えりすの隣で鼻を利かせていた白犬・牙姫は、ふと碧い両目を細めた。
 言葉はなかったが気配だけで察したえりすは、すばやく眼差しを下げる。
「見つけた?」
『そのようじゃ、わらわの鼻に感謝するがいい』
「どこ?」
 牙姫のセリフの後半は無視して、えりすは問いを重ねた。かわされたことを気にも留めず牙姫は、すい、と鼻先を巡らせた。屋上にいるえりすから見て左斜め前方、キャバクラや風俗店の入った雑居ビルが密集する一角をしめす。
 多くの人間が生みだす精気のよどみを好む、“やつら”らしい居場所だ。
「――――上等よ」
 短い言葉の中にあきらかな高揚を匂わせて、えりすは両足の幅をわずかに広げる。ざらついたコンクリートを滑る革靴の底が、じゃり、と音を立てた。そして深呼吸。それだけで、なにかが変わる。見た目には表れない彼女の内部で、なにかが。
(……っっ!!)
 己の肉体に内部から作用して、身体能力を強化する、初歩的な、呪文いらずの魔法――。
“増力(パワード)”。まとう黒のドレスは彼女の戦闘服だった。

 苺ノ沢えりす(meinosawa-erisu)、十六歳、高校一年、現在・見習い魔女。

「いつものように手だしは無用よ、牙姫」
『……知っておろうが。わらわは無駄な力は毛ほども使いとうない。本来、ここまでの力添えさえ億劫じゃというに』
「わかってる。感謝してるわ」
 えりすは、さらりと先のセリフを受けた弁を述べる。からかうように言葉を続けて、
「家に戻ったら『イヌまっしぐら・超パラダイス缶』――好きなだけあげるから」
 有名高級ドッグフードの名前をだされた牙姫は、射殺すような眼差しを向けた。
『食らうのは、きさまの肉でもよいのだぞ?』
 本気の脅しにかすかな笑みで応じて、えりすはコンクリートを踏む足に力をこめた。全高二百メートルはある高層ビルから、近くに建つ、ここより低いオフィスビルの屋上めがけて飛びだす……、と見えた動きが、はたと止まった。
 この程度の高低差ためらうはずもないと知っている牙姫は、訝しげな顔をする。
『? どうした』
 えりすは、自らが発した“家”というキーワードに引っかかっていた。
「そういえば、家を出るとき姉になにかいわれた気がする。なんだったかしら」
『忘れたなら、たいした話ではなかろう』
「いいえ。それなりに大事な用件だった気が……」
 きれいな曲線を描く眉をよせ、えりすは考えこむ。が、長くは続かなかった。
「やめるわ。いまはそれどころじゃないのだし」
 胸にわずかなモヤを抱えながらも、きっぱりといった。瞬時にスイッチが切り替わる。
 頭上で、流れる雲に満月が隠される。
 そして今度こそ、ひとりと一匹は夜の闇にまぎれて宙を舞った。ごうっ、と風が鳴る。

(――そう強く。わたしは、もっと強く。ただただ強く――!!)

 胸のうちでくり返す唯一にして絶対の誓いは、それだけ。猛る嵐のごとくに。

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